やさしいゆびさき

  ぱらぱらと雑誌に目を通しながら御剣が風呂から戻ってくるのを待つのは、日常茶飯事のことだった。その時々はぼくであったり御剣であったりと割合はこれ またバラバラなんだけど。御剣がついさっきまでぼくのニガテなパソコンとにらめっこしていたので、これは長引きそうだと踏んだぼくが先に風呂を使わせても らった。というわけで、今日こうして待ちぼうけを食らうのはぼくのお役目だった。本当は風呂から上がってくるのを待つよりも、一緒に入りたいんだけど なぁ。そう以前に零したら、お前はユデダコか何かかってぐらい顔を真っ赤にした御剣に本気で殴られたのであんまり言わないようにしてる。ちぇ、何だよ。一 緒に風呂に入りたいって、恋人だったらそう思うのが普通じゃないか。
  そんなことを考えていたらぺたぺたと素足でフローリングを歩く足音が近付いてきたので、読んでいた雑誌をぽいと机に放り投げてワクワクと彼を待ち構えた。 雑誌を読むと言ったって御剣が戻ってくるまでの暇潰しなんだから、彼が帰ってきたのだったらさして用はなかったりする。我ながら厳禁だなぁなんて思うけれ ど、ぼくは出来れば自分の本能に忠実に生きたいと常々思っているから、さほど気にしてない。あいつが自分を理性で縛りすぎてる分、ぼくがこれぐらいでちょ うどいい均衡を保ててると思うしね。
「ム……先に寝てていいと言っただろう」
「御剣が隣にいなきゃ寝れないんだ、ぼく」
「何馬鹿なことを言っている。自分の家では一人で寝ているだろうが」
「うん。家ではね。でもお前と一緒にいるのに一人で寝るなんて、そんなの寂しくて耐えられないよ」
「……………勝手に言ってろ」
  呆れたように顔を背けるけれど、その耳が赤く染まってるのは、決して風呂上りでのぼせてるからとかじゃないよね、御剣?
  天才だ、完璧だともてはやされている御剣だけれど、それは精一杯強がって隠しているだけであって、彼もたくさんの弱点や短所を持ち合わせてる。その最たる ものが御剣はとにかく素直じゃないということだ。その上言葉で感情表現するのが大の苦手という不器用な人間だから、全くもって困ったもの。ついでに強がり な彼は嘘や自分を取り繕うのが酷くヘタだ。なんてったって不器用だからね。だから、いくら言葉できついことを言おうとも、それが本心でないことは顔を見れ ば明らかだし、全身からぼくが大好きですってオーラを振りまいてるから、なかなかどうして彼の短所を短所として受け止められない自分がいるのに笑えてしま う。ぼくってほんと、根っから御剣バカなんだよなぁ。惚れた弱みってやつ?
  ピンクのパジャマに身を包んだ御剣は、しっとりと濡れた髪を首から下げたタオルでごしごしと拭きながら一旦寝室へ足を向け、しばらくしてすぐ戻ってきた。 手には小ぶりな金属質が握られていて、フローリングの床に直に座り込む御剣からふわりと石鹸の香りがした。ぼくも同じものを使っているはずなのに、御剣か ら香る石鹸のにおいとぼくのにおいが全く別物に感じるのは何でなんだろう。もっと近くで御剣の香りを楽しもうとソファから降りて、御剣と同じよう直にフ ローリングに座る。そっと肩口に頬を寄せると、まだしっとりと濡れたままの髪から香るシャンプーの仄かな香りが鼻腔を擽っていって、無意識に腰が疼いてし まった。…ぼくが思うに、コレは不可抗力ってやつじゃないかと。
「…あれ、御剣。爪切るの?」
「あぁ。伸びてきたからな」
  指で御剣の髪を一房掬い上げてはキスを落とすぼくの仕草に少し照れたような素振りを見せつつ、かわいいぼくの恋人はテーブルの隅に追いやられていた新聞を 手繰り寄せている。がさごそと音を立ててそれをテーブルに広げると、寝室から持ち出してきたそれ――爪切りを右手で持ち左の親指の白く伸びた爪先にそっと あてがって…。
「ちょ、ちょちょちょっと待った御剣」
「何だ。手元が狂うので邪魔をしないでいただきたい」
「いやいやいや。そうじゃなくてさ。お前、それ、明らかに切りすぎだろ。深爪になっちゃうよ」
「ム………」
  慌てて御剣の両手を押さえるぼくに御剣がいかにも不満そうな表情を貼り付けて睨んでくる。そんな顔も可愛いなぁなんて思うけれど、ひとまずそれは置いとい ておくことにしよう。言葉に詰まった拍子に御剣の手から爪切りを取り上げてしまうと、途端、「何をする!」と抗議の声が飛んできたので頬に一つキスをお見 舞いしてあげた。不意打ちのキスに驚いたのか嬉しかったのかどちらなのか定かではないけれど、顔を真っ赤にしながら頬を押さえる御剣が静かになったのでぼ くの作戦はまずまず成功だろう。多分。
「ぼくが切ったげるよ。お前不器用だし」
「そ…それぐらい、私一人でできる!いいから返したまえ」
「嫌だ。ぼくがしてあげたいの。…ダメ?」
  空いた右手を自分の指先で絡め取りながら少し甘えた口調で尋ねてみると、グ、とまたも御剣が言葉に詰まって黙り込んでしまった。御剣は強情なやつだけれ ど、その分、ぼくにこういう尋ね方をされるとめっぽう弱かった。百発百中と言ってもいいぐらい、よっぽど無茶なお願いでない限りは(渋々だけれど)頷いて くれるんだよね。俯いたまま黙り込む御剣を促すようにもう一度力を篭めて手を握ってやると、それでようやく、本当に小さくだけれど頷いてくれたので、あり がとうと囁いて額に口付ける。くすぐったそうに目を細めつつそっぽを向いて、早く済ませたまえと新聞の上に手を突き出すのが御剣の精一杯なんだろう。背け た耳がまた赤くなってることに気付いて、ホント素直じゃないやつ、と笑いが零れた。
「じゃ、切ってくよ?」
「……間違っても指は切るなよ」
「はいはい。そんな心配しなくても大丈夫だから」
  ぱちん、と音を立てて右の親指の爪を切り落とすと、除かれた爪先がころんと音も立てずに新聞紙の上を転がった。そのまま人差し指、中指、と数ミリ白い部分 を残して順調に爪を切り揃えていくと、ひとつ、ふたつ、と爪が同じように転がっていく。人に爪を切られるなんて経験、なかったんだろうな。初めは照れくさ そうにそっぽを向いていた御剣の視線は、いつの間にやら自分の指先と爪がころころ転がる新聞の上を行ったりきたりしていた。こんなことで喜んでくれるのな ら、弁護士を辞めて御剣専属の爪切り士になるのもいいかもなぁ。…なんてね。
  そんなこんなであっという間に作業は終わってしまい、最後に爪切りの背についたヤスリで整えてやるとぼくの任務は完了だ。ヤスリをかけて指で爪を拭ってや ると、終わったよと声をかけ爪切りをテーブルに置いてから手を離してやる。爪が零れてしまわないように早々に新聞を丸めてしまうと手近なゴミ箱にぽいと捨 てた。
「…って、御剣…何やってんの」
「……これでは長すぎるだろう。白い部分が残っているではないか」
「いやいやいや。ソレが普通だってば。ソレ以上切ったら、お前、指痛くなっちゃうよ」
「問題ない」
  いやいやいやいや。それじゃわざと白い部分を残して爪切りした意味がないだろう。元々は、コイツがいやに短く爪を切ろうとするからぼくが切ってあげたって いうのに。半ば強引に爪切りを奪い取ってスウェットのポケットに仕舞い込んでしまうと、不服そうに眉根を寄せて返せ、と零した。
「少し白い部分を残してあげるぐらいの方がいいんだって。大体なんでそんな深爪になるぐらい短く切ろうとするんだよ」
「キミには関係ないだろう。いいから返したまえ」
「ダーメ。ぼくを納得させられる理由があるなら別だけどね?」
「ム……!」
  すると、途端に眉根を寄せた御剣の表情がみるみるうちに赤く染まっていった。恥ずかしそうに唇を噛んで、目なんか潤ませちゃったりして。あれ、あれれ?ぼ く何かおかしなこと言ったかな。いやもちろん恥じ入った表情の御剣はたまらなく可愛いしベッドの中で思う存分独り占めしたいなぁなんて考えるぐらいには大 好きなんだけど、ぼくの今の発言のどこに、御剣をこうさせてしまう威力があったんだろう?
「み…御剣?どうしたの?」
「………ぅ、………」
「御剣…?」
  俯いた御剣の横顔に長い前髪がかかって、赤くなった頬が隠れてしまう。それがもったいなくて頬に手を差し入れるとまだ湿り気を帯びて重みを増した髪が指の 隙間を零れていった。その隙間から覗いた御剣の表情がそれはもう壮絶に色っぽくて、随分見慣れたと思ったけれどやっぱりコイツに免疫をつけるなんてムリだ と直感で悟る。言いにくそうにモゾモゾしている御剣を前に、ぼくも違う意味でモゾモゾしてしまった。―主に腰辺りが。
「……爪、………傷を………」
「え?なんて?」
  言いにくそうに口元をもごもごさせる御剣の頬を優しく擦ってやると、眉間のヒビがちょっとだけ和らぐ。それでも赤く染めた頬はそのままに、視線を落としたまま御剣はゆっくりと口を開いた。
「………キミ、の背中に…………傷をつけたくない……のだ…」
「………………………え」
「その、…私はよく、キミに……爪を立ててしまっているようだから……。私のせいでキミが怪我をするのは嫌だと思って…」
  膝の上で握られた拳にきゅっと力が入って血管が浮き出る。御剣の肌は白いから、青く浮き上がる血管の形までもがありありとわかってとてもキレイだ。そこに 目を落としながら、御剣はそのようなアレの行為中を思わせる表情で、目を潤ませたまま真っ赤になって恥ずかしそうに震えている。
  えぇと。つまり。
  …ぼくのためってこと?
「…御剣。ソレ、反則…」
  ぼくに怪我させたくないなんて。普段からそのようなアレの行為のことを考えて深爪になるぐらい爪を切ってたんだとしたら、もう、可愛すぎる。可愛すぎて、 お前一体なんなんだよ!って、矢張みたいなことを口走ってしまいそうだ。そんなにまでいつもぼくのことを考えてくれてたなんて……もしかして、思ってた以 上にぼくって愛されてる?
「なんでそんな可愛いんだよ。あーもう。可愛すぎて腹立つ」
「な、な、…何をバカなっ…!」
  うろたえる御剣が可愛すぎて、考えるより先に体が動いてしまってた。腰に手を回してぎゅっと引き寄せると、そのまま肩口に顔を埋めて抱き締める。御剣の肌 の匂いと、シャンプーや石鹸の香りが鼻腔を擽っていって体に浸透していった。疼き始めた体を感じ、まるで媚薬だなとそんなことをふと思う。御剣の肌を求め る指先は、背中を辿り、腕を擦り上げる。
「そんなこと気にしなくていいのに。きみに爪を立てられるなんて光栄なことじゃないか」
  だってきみが爪を立てる相手なんて、世界でたったぼくひとりだからね。きみを独り占めできる喜びなら、痛みであろうと何であろうと、もっともっと、たくさん欲しい。
  握り締めすぎて白くなっている拳に手のひらを重ねて、指先同士を絡めていく。持ち上げてその指先ひとつひとつにキスを落としていくと、最後に甲へ口付けを落とし少し強く吸い上げてみた。薄っすら残る鬱血痕は、きみがぼくのものであることの証だ。
「わ、わ、私は……嫌なのだ!キミを…無意識とは言え、傷つけるだなんて…!」
「うんうん、わかった。わかったから、御剣。だったら今日は」
  シてる最中、ずっと手を繋いでいようか?
  そう耳元で囁くと、もうこれ以上ないってぐらい真っ赤になった御剣が顔を上げて。瞬きすれば零れてしまいそうなほど潤んだ瞳、赤く火照った頬、薄くて形の いい桃色の唇、そして濡れた髪から香るシャンプーの香り。腰の疼きが限界を超えて、ゾクゾクと背筋を駆け上っていった。御剣という媚薬をたっぷり注がれた ぼくの体は、もう限界です。
  弾かれたように唇を奪ってやると、驚いて目を丸くした御剣が瞬きした途端に涙が一粒ぽろりと零れた。泣かなくていいよ御剣。きみだってぼくだって、こうし て手を繋いでればどっちも痛くないだろう?それをわからせてやろうと強硬手段に出たぼくはそのままの勢いでフローリングへ押し倒してやった。指同士を交差 させてしっかりと手を繋ぎ直すと、爪先を食い込ませた手の甲が熱を帯びる。それはとても甘美な痛みで、あますことなく享受しようと繋いだ手のひらに更に力 を篭めてやる。強情で照れ屋で天邪鬼で不器用で、けれどとっても可愛いぼくの恋人はやっぱり恥ずかしそうにバタバタと抵抗してみせていた。形だけの抵抗。 そうでもしなきゃ、きっと彼のプライドが許さないんだろう。だからぼくは精一杯そのプライドを尊重してあげる。だけど最後に勝つのはぼくだからね?その手 をもっと強く握り締めてから、形だけの抵抗をやめさせるべくあやすように顔中にキスを送った。爪を立てられるのも嫌いじゃないけれど、今日はこのプライド 高い王子様のために、ずっと手を繋いでてやろう。…ま、ちょっと動きにくいけど。可愛い恋人のためだからしょうがないなと、もう既に力が抜け始めている御 剣の唇へと舌を割り込ませてやった。

2008.09.11