真夏の恋の過ごし方

「暑い………」
「…じゃあソレ脱いだら?」
「私にキサマの真似事をしろと言うのか…その提案は却下する…」
 言いながらぐったりとソファに項垂れた御剣の額に一筋の汗。つぅっと形のいい輪郭を辿る雫が顎に到達すると、重力に従ってぽつり、音も立てずに零れ落ちた。静かに落ちた雫は御剣のスラックスに染みを作り、濃く色を変えてみせる。けれどそんなことも今は気に留まらないようで、はぁ、と熱い吐息を零しては、文句の言いたげな瞳でじとりとこちらを睨みつけてくる。ううう…ぼくに怒られたって困るんだけどなあ。でかでかと広告が打ち出された安っぽい団扇でぱたぱたと御剣を扇いでやりつつ困ったように眉根を寄せて笑みを浮かべたら、ムぅ、だか何だか聞き取りにくい呻き声を上げた御剣が、やがて居心地悪そうにそっぽを向く。その眉間にはぼく以上のヒビが刻み込まれていることだろう。全くもう、そんな表情ばかり作ってさ、いつか眉間から皺が消えなくなっちまっても知らないぞ。…まあ、そんな御剣でも変わらず愛せる自信はあるから、別にいいけどね。
「……暑い……」
 もう一度小さく聞こえた言葉。それが今にも切羽詰った色を含んでいて、思わず団扇を仰ぐ手が震えてしまった。こいつってホントかわいいよなあ。


 事の始まりは、こうだ。

 連日激務に追われている御剣が、何と今年は夏期休暇を申請したらしい。検事になって以来、初めてのことだそうだ。どういった心境の変化なのかはわからないけれど、ぼくと一緒に夏休みを過ごしたいと思っての行動だと嬉しいなあ、なんて呑気に思っていたら、どうやらそれがビンゴだったらしい。「この休暇は、キミのために使いたい。……その、キミさえよければ、だが…」。何がそんなに苦しいのか、悲鳴を上げそうなほど眉間にヒビを刻んだ御剣は、右手で左腕を抱きながら顔を逸らして言いにくそうに口元をもごもごさせつつ言葉を濁してそう言った。…こんな風に、世界一可愛い恋人に言われて断れる人間がどこに存在するって言うんだろう。イヤイヤイヤ、そんな人間いるわけない!
 というわけで、御剣が言うや否やぼくは驚くべきスピードで彼の手を取り満面の笑みで頷くと、残っていた事務仕事を自分でも驚くべきスピードでこなし(真宵ちゃんに「いつもそれぐらい熱心に取り組んでくれたらいいのに!」と愚痴を零されたのはここだけの秘密だ)ちゃっかり御剣と同じ期間分、夏期休暇を作ったというわけだ。モチロン真宵ちゃんにもしっかりお休みをあげたので、彼女は嬉々として倉院の里に帰っていった。はみちゃんと思う存分遊べるよ、ありがとうなるほどくん、オミヤゲ買ってくるからね!と言い残していった可愛い助手はぼくのこんな不埒な思いに微塵も気付いていないんだろうな、と思うと、少しだけ、本当に少ーしだけ罪悪感で胸がチクリと痛んだ。…まあでも真宵ちゃんも喜んでいたし、結果オーライってやつだよな。

 

 そして夏期休暇がやってきた。メンミツな話し合いにより、この夏期休暇はぼくの部屋よりも数倍広くて居心地のいい御剣の部屋で過ごそうという結論に至ったので、この日を誰よりも楽しみにしていたぼくは平常よりも早く起床し、ある程度の手荷物を整え(と言っても着替えやある程度必要な備品はあいつの家に置いてあるから今更持っていくものなどないのだけれど)さあそろそろ出発するかと小躍りでもしたい気持ちで腰を上げたその時だった。軽やかな「ピンポーン♪」というインターフォンの音が耳に届いたのは。
 全くもう、ぼくと御剣の逢瀬を邪魔するなんて一体誰だよ、許さないぞ、と悪態をつきたい気持ちを精一杯抑えながらはいはいと玄関口に向かってドアスコープから向こう側を覗く。小さな窓から見える景色、そしてそこに立ち尽くしていた人物を見て、思わず目を丸くしてしまった。
「み、御剣っ?」
「ム。早いな、成歩堂。キミのことだからてっきりまだ寝ているかと思っていたが…」
「今日から思う存分御剣と一緒に過ごせるのに、もったいなくって寝てなんかいられないよ。それよりどうしたんだ?あ、迎えに来てくれたとか?悪いなあ、今ちょうど出ようと―――…」
 思ってたんだ、と言葉を続けようとした矢先、御剣がお邪魔する、と一言呟いて玄関の戸をくぐってきた。え?ん??ワケがわからずぽかんと立ち尽くしていると、思いっきり不快そうな目で邪魔だどけ、と睨まれる。い、いやまあ確かに邪魔にはなってるけどさ。どういうことだよコレは?と思いつつ無意識に彼の言うことを聞いてしまうこの体が時々酷く恨めしい。反射的に壁に身を寄せたぼくの隣で靴を脱ぎ捨てた御剣は、勝手知ったる我が物顔で奥の部屋へと歩を進めていってしまうとあっという間に姿が見えなくなってしまった。結果、玄関には、あまり事情が呑み込めないままのぼくだけが取り残されることとなる。暫くぽかんとしていたぼくだったけれど、当初の目的であった御剣本人がこちらへやってきてしまったので今更家を出る理由もなく、とりあえずもう一度扉に施錠してから後に続いて部屋へと戻った。
「どうしたんだよ?この休みはお前の部屋でってこの間話し合ったの忘れた?」
「忘れてなどいないが」
「ぼくの部屋のがよかったとか?だったら初めっからそう言ってくれればよかったのに」
「そういうわけではない」
「じゃ、やっぱり迎えに来てくれたの?」
「断じて違う」
 ……………。
 意味がわからない。思わず溜め息が漏れて肩を落とすと、どこか不貞腐れた表情を浮かべたままの御剣も同じように息を零した。ソファに身を沈めている御剣の足元には、小さなボストンバックが転がっている。ちょうどぼくが御剣の家に持っていこうと用意していた荷物が入るぐらいの大きさだ。見覚えはあるけれど決してぼくのではないそれは、どう考えても明らかに御剣の所有物であって。よくわからないけれど、御剣はこの休みをぼくの部屋で過ごすつもりらしい。
 ぼく個人としては、正直御剣と過ごせるのならばどちらの家でも構わないと思ってる。そりゃもう一向に。けれどむっつりしたままソファで頬杖をついてじっとこちらへ鋭い視線を投げかけてくる恋人の不可解な行動はやっぱり頂けないとも思うわけで。
「みーつーるーぎ。お前、ワケわかんないぞ。はっきり言えよ」
「ム………」
「ぼくはさ、正直部屋なんてどうでもいいんだよ。そんなもの物事を形成する要素の一つでしかないからね。重要なのは物事…つまりぼくと御剣がこの夏休みを一緒に過ごすという一点だろ?だから、ぼくはお前がいればそれでいいんだ」
「う…ム。それはその、私だって、同じに決まっている」
「うん。知ってる」
 頷きながらそっと近寄ると、ソファの真ん中で贅沢そうに身を委ねていた御剣が緩慢な動作でノロノロと横へずれてくれた。お陰でもう一人分空いたスペースへと身を滑り込ませることに成功すると、浅く腰掛けてから腰を屈めて彼の顔を覗き込む。意図的に目を合わせないようにしているのだろう、伏せられた瞳は居場所を探すようにキョロキョロと宙を徘徊しているし、そのせいで男のクセに長い睫毛が頬に影を落としていて、たったそれだけのことが妙に色っぽいんだから本当に困る。ぼくも御剣も同じ男であることに変わりはないのにこいつのこの色気って一体何なんだろう、なんて見当違いのことを考えながら一向にこちらを見ようとしない御剣にぼくも焦れてしまって、つい手のひらで頬に触れてしまう。途端、はっと目を見開いた御剣が居心地悪そうに視線を向けてきたので、またそっぽを向かれないよう頬に添えた手のひらへ力を籠めて顔を固定させる。
「でも肝心のお前にそんな膨れっ面されちゃ、ぼくだって心配するさ。嫌なこととか気になることがあるんなら、今全部言って楽になっちまおう。な。せっかくの夏休みなのに溜め込んでちゃ楽しめないだろ。御剣は、もったいないと思わない?」
 ここに着いた当初からヒビの入りっぱなしな眉間にひとつキスを落とすと、きゅっと御剣が目を閉じたのがわかる。コレも御剣のクセの一つで、御剣は、ぼくがある一定の距離まで顔を近付けると反射的に目を瞑ってしまうようだった。そのぎゅっと力いっぱい閉じた瞳だとか、羞恥に薄っすら桃色に染まる目尻、堅く結ばれた薄い唇なんかがぼくの嗜虐心をここぞとばかりに刺激していることにコイツは気付いてないんだろうか。今だって恥ずかしそうに頬を赤く染め上げながら睨んでくる表情なんかもうたまらない。今すぐここで押し倒して無理やりにでも事に及びたい欲求に駆られる脳をギリギリ、本当にギリッギリ残っていた理性でかろうじて制すると、僅かばかりの理性が残っている内に眉間から唇を離した。
「……う…ム。キミがそこまで言うのであれば致し方あるまい。…しかし、だ」
「ん?何?」
「…わ…笑わないでもらえるだろうか…」
 …えぇと。
 笑う以前にぼくの理性が持つかどうかが心配です、ハイ。
 本能に忠実な答えを紡いでしまいそうな唇を噛み締め急いでブンブンと首を縦に振ると、やや暫く考え込むような仕草を見せた御剣は徐に口を開き始めた。
「その…ここに来た理由だが。私の部屋が一時的に使えなくなってしまったのだよ」
「一時的に使えなくなってしまった…って、どういうこと?」
 静かな口調で御剣が話し始めたのとようやく欲求が落ち着いてきたのが相俟って、ぼくは御剣の頬に添えていた手のひらを離すと彼を解放してやった。丸めていた背をぴんと伸ばしてそのままソファの背もたれへとゆっくり身を沈めるぼくを御剣が一瞥する。そんな御剣に視線を向けたまま思わず尋ね返すと、そこで一旦彼が口籠った。しかし先程のようにむっつりと黙り込むこともなく、少し躊躇った様子だけれど御剣はちゃんと言葉を続けてくれて。
「連日猛暑が続いているからな、キミが来る前にシャワーでも浴びてスッキリしようと浴室に入った。
 その時に………壊れたのだよ、シャワーが」
「あー…そういうことか」
 御剣の背中を優しく撫でてやる。けれど、うム。と頷く御剣の表情は未だに浮かないままだ。シャワーが壊れたぐらいでここまで口籠る必要はないだろうから、きっとまだ他に何か理由があるのだろう。御剣の言葉の続きを促すように背中をさすってやると、ついに観念したらしく、肩を落として項垂れた様子のまま、小さい、小さい声で御剣は呟いた。
「…足を、滑らせてな。防衛本能が働いた私は咄嗟に何か掴めもうと無意識の内に手を伸ばして」
「うん、そりゃ人間誰でもそうするよな」
「…………たまたま、掴んだのがレバーだったんだ。それで、その……レバーが、見事なまでに…折れてしまったのだよ」
「そっかそっか、それは大変…………って、エエエエエ!?」
 反射的に漏れた叫び声に、うるさい、急に叫ぶな馬鹿者!と罵声の声が飛んできたので慌てて口を噤んだ。でもさ、誰だって驚くだろ普通!風呂場で転んで自分でレバー折ったやつ、なんて聞いたことないぞ。どこまで不器用なんだ、御剣って。いやもうこれは不器用とかそういう次元の話じゃないんだろうな。いっそ特技と名乗ってもいいぐらいかもしれない。
 …なんてことを呑気に考えていたら、右の輪郭辺りに鋭い視線。じとりと睨み付けるようなイヤーな眼差しを感じたので、そちらへ顔を向けてやると、案の定御剣が眉間に皺を寄せてこちらをじとっと見つめている。けれど頬がほんのりピンク色なので迫力なんかはまるでゼロ。
 …というか、こういう表情はこういう表情でぼくの中の征服欲が非常に掻き立てられるので、逆効果だったりするんだよなあ…。
「笑うなと言っただろう!」
「イヤイヤイヤ、まず笑ってないし!何も言ってないじゃないかぼく!」
「私だってこんな事態が発生するとは予想だにしていなかったのだ!」
「ぼくだってまさかそんなことになってたとは思わなかったからちょっと驚いただけだよ!」
 恥ずかしそうに目元を真っ赤にして怒鳴ってくる御剣が可愛くて、気を抜けば緩んでしまいそうな口元をぎゅっと引き締める。今ここで笑いでもしたら、コイツのことだ、怒り狂うか泣き喚いた挙句、この休み中ずっとヘソを曲げかねない。せっかくの夏休み、御剣と楽しい時間を過ごしたいと心底ぼくは思っているわけだから、ここで恋人の機嫌を損ねるわけにはいかないのだ。背中をさする手の動きを再開させあやすように数回ぽんぽんと軽く叩いてやると、一文字に堅く結ばれていた唇からゆっくり力が抜けていった。
「それで一時的に部屋が使えなくなったってわけか」
「う……ム…。すぐに業者に電話をしたのだが、修理に伺えるのは翌日以降と言われてしまってな。
 …仕方がないので止水栓を止めてこうして出てきたというわけだ」
「そっか、休みの初日から災難だったね。お疲れさま。
 でも別にそこまで恥ずかしがることないのに。事故だったんだから仕方ないだろ?」
「い、いい歳をした大の大人が風呂場で足を滑らせて転んだ挙句勢い余ってレバーを折ったなどと、恥ずかしくて誰が言えるか!」

 いや、言ってるし。それも大音量のボリュームで。

 まだ御剣は何か言いたげにブツブツと口の中で呟いていたけれど、どうやら言ったことで楽になったのか、どことなくスッキリとした表情を浮かべていて気付けば眉間のヒビも消えていた。怒った顔もいいけれど、うん、やっぱりこっちの方が断然いい。ソファに預けていた背中をゆっくり離して御剣へと身を寄せると、背中をさすっていた手をずらして腰へと回し、横からぎゅっと抱えるようにして御剣の身体を抱き締めた。機嫌も直ってきたようで、これといった抵抗をすることもなく大人しく肩口に額を擦り付けてくる愛しい恋人。ようやく御剣を腕の中に抱くことができた喜びに頬が緩んでしまうのを止められない。無防備にさらされた白いうなじが目に眩しくて、うっすらと汗ばんだそこに口付けようと顔を動かした途端、腕の中で御剣が小さく身じろぎした。
「…な、成歩堂、待て」
「んー、何?」
 ちゅ、とまずは啄ばむようなキスをひとつ。次いで吸い付くような口付けを。ぼくとは比べ物にならないぐらい白くてキメ細やかな肌は一度吸い付くと離れられなくて、ちゅ、ちゅ、と小さな水音を立てながら何度もキスを落としていく。御剣の肌がぼくによって赤く色付いていくその光景を見るのがぼくはたまらなく好きだった。口付けたその場所から御剣がどんどんとぼくのものへ染まりゆく感覚。唇で、手のひらで、全身で感じるこの感覚は何事にも変え難く何より愛しい瞬間のひとつだ。はぁ、と熱い吐息を零した御剣が頼りなさげにぼくの胸元で手を握り締める。その手に自分の手のひらを重ねてきゅっと包み込んでやると、途端、口から零れた甘やかな吐息が次々と部屋を満たしていった。すっかり脱力している御剣の体を片手で抱きながら、こんな朝早くから御剣に触れられるなんて贅沢な夏休みだな、とだらしなく頬が緩んでしまうのを止められない。まだ夏休みは始まったばかりだし、第1ラウンドはソファかな―――とそのまま御剣を押し倒そうと傾いたぼくの額を、つぅ、と汗が一筋流れ落ちていく。ああ、そういや家を出る直前だったから、クーラーは切っていたんだっけ。気付いた途端、興奮していることも相俟って無性に体が火照り始める。うなじへ舌を這わせれば御剣の肌からも仄かな塩味が感じ取れて、御剣もぼくと同じように体の火照りを感じているようだった。うなじから耳元へ唇を移動させながら横目でローテーブルを見やると、クーラーのリモコンがそこにあることを確認する。外耳にかしりと齧り付くと御剣の体がぶるりと震え、それを腰に回した手であやしつつ、もう片方の手を精一杯伸ばしてクーラーのリモコンを手に取ってから電源ボタンを指で探り出し、本体の方へと向けてスイッチを入れてやる。軽やかな音とモーターの振動音が響いて、快適な涼風が吹いてくる。………はず、だった。
「あれ…?」
「………ど…うし、た………?」
 唐突に行為を中断したぼくへと、すっかり蕩けて潤んだ瞳をねだるように向けてくる御剣。意地っ張りな上に恥ずかしがりだから滅多なことがない限り言葉でおねだりなんてしてくれないけど、その分、御剣は目で雄弁に語りかけてくる。ついでに言うと、ぼくはこの目に滅法弱い。この目に見つめられるだけで、どんな無茶なお願いでも聞いてあげたくなってしまうのだ。自分の恋人ながら恐ろしいと思うよ、このフェロモンは天性だよな、本当にもう。
「いや、ちょっと暑いかなって思ってクーラーを………おかしいな、電池が切れたのかな」
「リモコンの液晶は表示されているのだから、電池切れではないだろう。距離が遠いのではないか?」
 うーん、確かにそうかもしれない。そっと御剣の腰に回した手を離すと、御剣が名残惜しそうにぼくの胸元から手をどけた。ソファから立ち上がってクーラーの真下まで移動すると、何度かリモコンの電源ボタンを押してみる。…が、クーラーは相変わらず沈黙を守ったままで微動だにしない。ヤケになって何度も角度を変えてはボタンを連打するけれど、それでも一向に動く気配がなかった。おまけにどんどんと温度が上昇する室内のせいで額に粒のような汗がひとつ、ふたつと滲み始め、顔がますます火照ってきたのを自身で感じる。手を伸ばしてぼんぼん、とクーラーを叩いてやるけどやっぱりしぃんと大人しいままのそいつを見て、嫌な予感が脳裏を過ぎった。
 …というかソレしかないよな、うん。
「御剣………クーラー、壊れちゃったみたい…」
「な……なんだと……?」
 暑さのせいではない汗を額からだらだらと流しながら零した呟きに、今度は御剣が目を丸くする番だった。

 

 そうして、冒頭に至ったわけだ。
 一応あの後すぐに業者に電話をしたので、数時間後には到着する手筈になっている。その時にすぐ修理してもらえるかはわからないけれど、一度呼んでしまった以上部屋から出るわけにもいかず、連日猛暑が続く中今日だって例外でないにも関わらず2人して大人しく到着を待っているというわけだ。
 クーラーの効かない部屋の中、少しでも涼を取り入れようと開け放した窓からは僅かな、本当にごくごく僅かな風が吹いてきてカーテンを揺らしている。けれどそんなものでこの暑さが解消されるわけもなく、御剣はぐったりとソファに項垂れているのだった。ぼくはといえば早々にこの暑さに耐え切れなくなってしまい、着ていたシャツを脱ぎ捨て上半身裸にデニムという何ともラフな格好をしているお陰で御剣よりは随分と涼しい。なので御剣もどう、と提案してみたのだが、けだるげな様子で拒否されてしまって若干惜しい気持ちが隠せなかったり、する。
「キミの部屋には扇風機もないのか……」
「あー、去年まではあったんだけど…壊れちゃって。まだ買い換えてないんだよな」
 ははは、と気まずさをごまかすように軽く笑うと、反論する気も起きないのだろうか、はぁと溜め息を零した御剣が脱力したかのようにソファへ横たわった。御剣の体を受け止める、ぽすっと空気の抜けるような軽い音がして、ソファの足元に座り込んでいたぼくの真横に御剣の端正な顔。灰色がかった茶色の前髪が重力に従ってさらりと零れ、今は緩やかに閉じられている涼やかな目元を隠していた。粒のように浮かんだ汗のせいで額に張り付いた前髪を指で払ってやりそのまま髪を撫で付けてやると、心地良いのか御剣が少しだけ口元を綻ばせる。その表情がびっくりするほど綺麗で、可愛くて。一瞬、時が止まったかと思うぐらいの衝撃がぼくを襲い、心臓が早鐘を撞くように高鳴り始めてしまう。かぁ、と頬が熱くなるのを自分で感じ、頼むから暫く目を開けないでくれよと心の中で懇願した。
 もう随分と傍にいて御剣の色んな表情を見てきたはずなのに、ぼくの心はいつまで経っても御剣に対しての耐性を持てないでいる。今だって、こんなさり気ない微笑み(とも呼べるかどうか曖昧なぐらいの微笑みだ!)を向けられただけで、動悸が激しくなるのを抑えられないでいる。いつだって御剣に関する事柄において、冷静でいられたことなんて一度もない。無茶苦茶に焦ったり、これ以上ないぐらい喜んだり。こんな自分が存在したのかと自分自身で驚くことだって沢山あった。悔しいような、嬉しいような、何とも言えない不思議な気持ちが胸いっぱいに込み上げてくる。あぁもうホント天才っていうか天災だよ、ぼくにとってのお前って。
「成歩堂…」
「え……あ、あぁ、何?」
 軽くトリップしていたらしい。囁くような声色で名前を呼ばれてはっと我に返ると、ソファに頬を押し付けたままうつ伏せで横たわる御剣がいつの間にか目を開けていてじっとこちらを見つめていた。何だか物足りなさそうな眼差し。何を言うでもなく名前を呼んだきり堅く唇を閉ざしてしまったけれど、情欲の色が揺らめく瞳は口で語るよりも雄弁に物事を物語ってくる。さてじゃあ何を求めているのだろうか、と考えるでもなく御剣の視線がちらりとぼくの手を一瞥したことで答えは明らかになった。あぁそういうことね。
「ん…」
「お前って…ネコみたい」
「……私はれっきとした人間だ。間違えるな」
 トリップしてる間に髪を撫でる手の動きを止めていたのが不満だったらしい。要望通りゆっくりとその動きを再開してやると、どうやら満足したようでまたゆるゆると目を閉じていった。さらさらと指の隙間から零れ落ちていく柔らかな髪。ぼくのとは大違いだ。髪に良さそうなたっかいシャンプーだの何だのを使ってるんだろうなあ。だけどきっとぼくが御剣と同じものを使ったところでこんな髪にはならないだろう。御剣の全ては神が望んで与えたものであって、ここまで整っているということは、きっと御剣は神様にとてもとても愛されていたんだと思う。深い寵愛を受け、御剣が御剣として生を受けたんだと思うと非現実的な神の存在だって信じてみるのもそう悪くない、なんて。ぼくらしくないけど、心の底からそう思うんだ。本当にもう、どうしてこんなにぼくは御剣が好きで好きでたまらないんだろう。
 まるで神聖なものを見るかのように何気なく御剣に視線を落とす。と、暑さのせいか頬が薄っすら紅潮している御剣は壮絶に色っぽくて、しかも時折吐息交じりに艶やかな声を漏らすのだからたまらない。おまけにじっとりと汗ばんだ首筋が光の加減でキラキラ光って、否が応でも行為中の彼を彷彿とさせる。なのに着込んだシャツは首元までキッチリとボタンが閉じられていて、そのアンバランス具合に尚更そそられてしまった。落ち着いた情欲にもう一度火が灯るのを(主に下半身で)自覚し、御剣が心地良さそうにうっとりと目を瞑っていることをいいことにそっと首筋へ顔を近付ける。つぅ、と重力に従って零れ落ちる汗を掬い取るように舌を伸ばすと、先程よりも濃く感じるしょっぱいそれを堪能するかのようにぐっと唇を押し当てた。途端、体を強張らせた御剣が「っひ…ぁ!」と甘やかな悲鳴を上げた。
「なっ…や、やめろ、こら!汗だくなのだぞ、私は!」
「そんなの関係ないって。ぼくは触れたいときにお前に触れるの」
「あ、こら……やめっ……!」
 じたばたと暴れられる前に押さえ込んでしまおうと御剣の腰辺りへ乗っかると、そのままぐっと背を丸めて唇を塞いでしまう。憎まれ口もかわいいんだけど、今はこのお喋りな口にお休みしててほしいんだ。
 もごもごと何か言いたげに御剣が口を動かすけれど、その声さえも全部全部奪うように深く口付けていく。薄く開いた唇から舌を覗かせると、あくまで優しく御剣の下唇をなぞる。ツ…ッと淵を往復するようにゆっくりとなぞれば、自然と御剣の唇が開いてぽろりと甘い吐息を零した。その僅かな隙を逃さない。強引に差し入れた舌で奥に引っ込んだまま逃げようとする御剣の舌を捕らえると、執拗に追い立てて絡ませていく。舌先で上顎をなぞり上げてやると、とうとう御剣の唇からは堪えようのない嬌声が零れ始めてぼくは胸中でにやりと笑う。朱の走った頬は決して暑さのせいではないし、目尻に浮かんだ涙も嫌悪からくるものじゃない。あれだけ抵抗していたはずの御剣の体からは今やすっかり力も抜けきって、だらりとしなやかな肢体をソファに預けていた。それを視界に留め、くちゅ、と淫靡な水音を響かせてからわざとゆっくり、名残惜しむように顔を離す。堅く閉じられていた瞼が恐々と開き、眉間に皺を寄せてじろりとこちらに視線を寄越す御剣に、思わず笑いが零れてしまった。そんなさ、快楽に蕩けて情欲の灯った眼差しで見つめられても、おねだりしてるようにしか見えないよ御剣。
「き…貴様は…っ。よ、余計に暑苦しくなるではないか!」
「イヤイヤイヤ、だからこそだろ?」
 じっとしてるより何かに夢中になってた方が、きっと暑さも気にならないよ。そうにっこりと笑ってもう一度ぺろりと首筋を伝う汗を舐めとってやったら、ひっと引き攣れるような呼吸音が喉の奥から漏れた。
「だから、ね。御剣。いい?」
「…………わ、わざわざそういうことを聞くな!」
 そう言ってぷぃっと顔を横向けた御剣だけれど、もうそれ以上の抵抗は見られなかったのでお許しが出たということなんだろう。まあわかりきってたんだけど、一応こうしてお伺いを立てておかないと後でどうなるかわかったもんじゃないからね。ありがとうの意味を込めて真下にある頬へとキスを落とすと、恥ずかしそうにきゅっと目を瞑って、それから。伸ばされた手がゆっくりと背中に回って、ぎゅ、と御剣が縋りついてくる。その仕草がたまらなく可愛くて、すっかり頭に血が上ってしまったぼくは御剣に噛み付くようにキスをした。

 

 開いた窓からは相変わらず熱気を孕んだ風が、遠くで小さな子供たちが楽しげに駆けていく音を運んでくる。けたたましく鳴く蝉の声が耳にうるさくて、それと同時に夏を感じた。
 じっとりと汗ばんだ肌、遠くに聞こえる蝉の音、子供たちの無邪気な笑い声。ふわりとカーテンが一際大きく膨らんで揺れた様を視界の端に留めてから、御剣と共にソファに沈み込む。こうして触れ合えるなら毎日猛暑だって構わないなあ、なんて不埒なことを考えながら、汗のお陰でいつもより吸い付くような肌に溺れていった。

 

 ―――夏休みはまだ、始まったばかりだ。

2008.08.21