特効薬のススメ

 御剣がウチに泊まりに来るらしい。お互い仕事が控えているから、と大抵平日は泊まりにきたりしないんだけれど、「キミの家に行ってもいいだろうか…」と 珍しく甘えてきた御剣を無下にすることなんてできるわけもなく。超特急で仕事を片付け慌しく事務所を後にしたぼくの背に「明日の朝は特に相談も入ってない から、ゆっくり出勤しておいでねーっ」とかかった若き副所長の声がこんなにもありがたく感じたのは後にも先にもきっとこの時だけだろう。
  急いで自宅に戻って散らかりきった部屋を片付けてから、簡単な夕食を作る。一人暮らしが長いから料理は得意な方だ。御剣が甘えてくるというのは本当に珍し いことなので、きっと何か嫌なことがあったか、限界まで疲れているかのどちらかに違いない。だったら、外に食べにいくよりぼくの家で食事をとる方が御剣の 体にとっても楽だろうし、ぼくもその方が都合がいい。弱ってる御剣をあまり他人に見せたくないというのと、何より自宅の方が気兼ねなくくっついていられる からね。

 そうこうしているうちに時刻は10時を回り、仕事が立て込んでいるんだろうか、ということはやっぱり疲れているんだろうなとたっぷりホワイトシ チューの入った鍋に向かいながら推測すると無性に心配になる。可愛いぼくの恋人は時々、というかほとんどいつも、仕事に関することとなると無茶をする癖が あるからだ。体を心配しつつ、けれどそういう姿が恋人のぼくとしては誇りであったりもする。結局は惚れた弱みってこと。
  煮え滾ったシチューに突っ込んだおたまをぐるぐるとかき混ぜていると、ピンポン、軽やかなインターフォンの音。待ち望んでいた訪問者に慌ててコンロの火を消し玄関先に向かって勢いよく扉を開くと、愛しい愛しい人の姿を見つけて自然と頬が緩む。
「おかえり。待ってたよ」
「遅くなってすまない。…ただいま」
  少し恥ずかしそうに口にしてから、ひとつ咳払い。けれど今にも泣き出しそうな表情を浮かべている御剣が心配で、思わずぼくまで眉根を寄せてしまいそうにな り、慌てて顔を引き締める。こんなときだからこそぼくは笑っていなきゃいけないと思うから、だらしなく笑みを浮かべたまま御剣が部屋に入りやすいよう扉を 大きく押し開いてやる。ひやりとした冷気が部屋に雪崩れ込んでくるのを察知して、早く入りなよ、寒いでしょ、と促すと、うム。と小さく頷いた御剣が大人し くそれに従った。靴を脱いでいる隙に御剣の手からアタッシュケースを奪い取ってしまうと、一足先にリビングへ戻っていつもの低位置、ローテーブルのすぐ脇 へ。それから一呼吸置いて御剣がひょこりとリビングに顔を覗かせる。明るいところで見る御剣の顔はやはりどことなく疲れているように感じて、目下の隈が濃 くなっている。表情は変わらず泣き出しそうなそれそのままだ。少し余裕があるように感じるスーツ、もしかしたら痩せたのかもしれない。先日会ったのは2週 間前だけれどたった2週間でここまで疲弊するということは、きっと何か大きな事件を取り扱ってるんだろうなと彼の姿を見てぼんやり思った。
「御剣、先にご飯にする?それともシャワー浴びてくる?」
「ん…」
  歯切れの悪い言葉に、いよいよぼくも本格的に心配になってきた。そして、最悪の事態を想定してしまってさぁっと顔から血の気がひいていく。
  もしかして…疲れてるとかじゃなく、もっと言いにくい何かを告げにきたんじゃないだろうか。御剣は。そういえば2週間前、アイツが嫌だって言うのに随分と 無理をさせたっけなあ…。いやでもあの時の御剣はたまらなく可愛かった。目に涙なんか浮かべて頬を紅潮させて、嫌だって言う癖にぼくの首に縋りついちゃっ て…。

 …って、いやいやいや、そうじゃないだろ、ぼく!

 もしかして、2週間前のアレが原因でぼくとの付き合いが嫌になっちゃって、でもどうやって告げたらいいのか悩んでここまで疲弊しちゃったんじゃな いか。御剣は冷たい人間だとか色んなことを言われているけれど、その実誰よりも優しくて繊細な人間だ。小さな頃から御剣を見てきたぼくが言うんだから間違 いない。だからこそ、人を傷つけることにとても怯えている。そんな御剣の性格を考えると、ぼくの予想はあながち間違いでないように思えた。途端に、不安と 絶望が胸を支配する。ぼく、…御剣を、失うのか?

「成歩堂……」
  か細い声。いつもと違って全く覇気のないそれにびくっと肩を震わせると、いつの間にか御剣が目の前に迫っていた。
「……なるほ、どう」
「え…。…み、御剣?」
  不安と絶望に打ちひしがれたのもつかの間。ことん、と御剣の頭が肩口に落ちてきて、彼の体がぼくに寄りかかってきた。額を押し付けられた肩口が熱を孕んだ ように熱くてじりじりする。どうやら別れを切り出される様子はなさそうでほっとすると、今度は御剣の様子がただただ心配になった。そっと持ち上げた手を御 剣の背中に回して出来うる限り優しく、優しく撫でてやると、ほぅと溜め息が零れた。
「会いたかったよ、御剣」
「ん………」
  先ほどと同じ歯切れの悪い言葉だけれど、その声にははっきりと喜びの色が混ざっていた。大丈夫?とか、そういった労いの言葉よりも、疲れている御剣にはこ ういう言葉の方がよっぽど効果的なのをぼくは知っている。会いたかったというのも甘えてきた御剣の方が気持ちは大きいんだろうけど、意地っ張りで照れ屋な 恋人は自分から絶対にそんなこと言わないだろうから、ここはあえてぼくが言ってやるんだ。抱き締めて、愛の言葉を囁いて、口付けて、交わって。それが彼へ の極上の薬だということをぼくは知っている。なんてったってぼくは彼の一生涯のパートナーであり、専属医師のようなものだからね。
「顔上げて、御剣。キス、したい」
  頬をゆるゆると撫で上げてストレートに欲求を伝えると、恥ずかしそうに眉間にヒビを刻み込んだ御剣がゆっくりと顔をあげた。ぼくは御剣のこの表情がとても 好きだ。嗜虐心をそそられると共に、ぼくにしか見せないこの表情が貪欲なまでに御剣を求めるぼくの独占欲を満たしてくれるから。羞恥に耐えながらも自ら望 んで差し出してくれる唇に、よかった、今日もまだ御剣はぼくを好きでいてくれている、と安堵する。
  触れるだけの口付けを落として、2度、3度と啄ばんでから薄っすら開いた唇の隙間から舌を割り入れた。まるでサカリのついた犬かなんかだな、と自分のこと ながら呆れてしまうけれど、だって御剣もこれを望んでる。くちゅりとわざと音を響かせるように舌を絡ませれば、あえやかな嬌声がぽろぽろと零れ始めて部屋 を満たしていく。安心させるように背中に回した手で優しく擦ってやると、開いたぼくの瞳にはっきり映る御剣の安心した表情。とても艶やかで色っぽい、けれ どどこか子供のように安心しきったそんな表情だった。
「御剣。好き。好きだよ。愛してる」
「ん……わかっている……」
  わかってる、って言いながらも、嬉しそうな表情。人前で滅多に笑わない御剣がこんなに簡単に相好を崩すのはきっとぼくの前だけだ。ウチに到着して僅か5分 程度なのに、さっきまでの泣き出しそうな表情は跡形もなく消え去っていて、そこに浮かぶのは愛に満ちたそれそのもの。

「まだまだ言い足りないし、もっと御剣に触れたいんだ。 だから、ご飯より先にきみを食べちゃってもいい?」
「私は…キミの餌ではないぞ」
「それじゃ、言い方を変える。抱いてもいい?欲しいんだ、御剣、きみが」
  手のひらを手にとって、口付けを。手のひらのキスは懇願の意味。ちゅ、と音を立てて少しかさついた手のひらから唇を離すと、こちらを見つめる御剣の瞳と視線が交わった。少し困ったような顔つき、けれど口元はやれやれと言わんばかりに和らいでいる。
「私は、………見ての通り、疲れているのだが」
「優しくするし、無理させないから。御剣の疲れを取ることだって保障するよ」
「くくっ…その言葉に嘘偽りはないだろうな?」
「もちろん。きみのことでぼくが嘘ついたこと、今まであった?」
「…ない、な」
  だろ?と自慢げに胸を張って言うと、調子に乗るなと小突かれた。
「…それじゃあ」
  ふわり、と首筋に回る腕。もう一度押し付けられた唇の熱さを味わう間もなく離れていって、至近距離でにやり、と意地悪く笑う御剣の顔が目に飛び込んできた。
「お手並み拝見といこうか。私を、癒してみせたまえ」
  お任せあれ。

 声に出さず口付けで応えると、御剣の目元が和らいで穏やかな表情に変わった。御剣を癒す最良の方法なんてぼくにとっては赤子の手を捻るより簡単な こと。だってぼくが御剣を愛していると同時に、御剣はぼくを愛して止まないんだから。そんなぼくに触れられて、御剣が心休まらないわけない。
  お互いがお互いの特効薬。きっとどんな名医の作る薬よりも、抜群の効力を発揮するお薬なんだ。
  薬って本来は食後に飲まなきゃいけないんだろうけど、緊急を要する事態だし仕方ない。その頃には御剣の声にも覇気が戻っていればいいなと願いつつ、2人し てソファになだれ込んだ。やっぱり少し痩せた腰を抱きながら、お薬注入後はたっぷりシチューを食べさせなきゃなと心に決めて。

2008.09.17