それは突然訪れた、全く予期せぬタイミング。
こんなことが起こり得るなどと一体誰が想定出来ただろうか。




  外は既に日が落ちていて、頼りなさげな外灯がぽつり、ぽつりと並んでいる。それをぼんやりと見つめたまま、目の前の男ははっきりとした発音で、一言。
「―別れよう」
  何故、なぜ、ナゼ。まるでそれしか言葉を知らぬ赤子のように、同じ言葉が何度も何度も頭の中で繰り返される。何故、なぜ、ナゼ?
「明日からはさ…友達に戻ろう」
「……ど…どうして、そんなことを……」
  絞り出すようにして発した声は、酷く掠れていた。強く握り締めたてのひらは嫌な汗でじっとりと濡れている。爪が食い込む皮膚の痛みも、この時は全く感じなかった。
「…お前の為なんだよ。だからお前は、ただ頷いてくれればいいんだ」
  その一言が耳に届いた瞬間。私の中で何かが弾けた。頭に血が上る感覚、目の前が白く霞んで見えた。次いで何かが盛大にひっくり返る音が響いて、ようやく我に返った私の足元には、頬を押さえて蹲る成歩堂の姿。
「っ…ふざけるな!私の意志は関係ないと!!貴様はそう言いたいのか!!」
  依然、頬を押さえて俯いたままの成歩堂に向かって怒声を浴びせるも、返事はない。どうやら口元が切れたらしい、時折唇の端を指の腹で拭うだけだ。
「私の為だと?私のことは、私が一番よくわかっている!貴様に何がわかると…!」
  ひゅ、と風を切る音。それが成歩堂の拳だと認識した時には、思いっきり床に叩きつけられていた。倒れこむ瞬間、デスクに腕をぶつけたせいで立てかけていた 書物が乾いた音を立てて落ちてくる。それらを腕で押しのけつつ上半身を起こして成歩堂を睨みつければ、大きく肩を震わせた彼が静かに口を開く。
「……何もわかってないのはお前の方だろ!お前は…自分のことなんて、何一つわかっちゃいないんだ!」
「馬鹿げたことを言うな!どうしてキミにそんなことがわかる!?」
「わかるさ!ぼくはお前を、十五年間も追ってきたんだぞ!お前以上に、ぼくはお前を見てきたんだ!」
  言葉を返そうとして、口端に感じるピリリとした痛みに思わず顔を顰めてしまった。指でなぞると薄っすら血がついた。どうやら、同じくして口元を切ったようだ。それを目にした成歩堂が一瞬体を強張らせる。
成歩堂の様子に気付かないフリをして手の甲で血を拭うと、ゆっくり体を起こして立ち上がる。正面からまっすぐ向き合って、見つめる先にはお互いの瞳。
成歩堂の目は、いつだってまっすぐで迷いがない。誰よりも澄んでいて、真実のみを追及する、穢れなき眼差し。こんな状況であっても私は、成歩堂の目が好きだと改めて実感していた。
  二人の間に沈黙が落ちる。重く、長い沈黙だ。時間にしてみれば、恐らく一分にも満たないのだろう。
けれど私には、まるで数時間にも思えるほどの長い長い…沈黙に感じられた。しかし、その間も視線が外されることはなく。成歩堂の眼差しが、全てを物語っていた。
  ―もう、無理なのだと。
「………なるほ、」
「御剣」
  す、と伸ばされた手が、傷口をなぞる。先程私を殴り飛ばしたてのひらで、今度は優しく触れるのか、キミという男は。
「殴って…ゴメン」
  親指で血を拭われる。また走る、ピリッとした鋭い痛み。けれどキミが与えてくれるのなら、痛みであろうと何であろうと、私は喜んで受け入れよう。―だから。
「―今までありがとう」
「成歩堂!」
「明日からは…友達だ」




  その後の行動はあまり記憶にない。ただ、気付いた時には一人、運転席に座っていた。暗がりの中、窓から差し込む外灯と月明かりがハンドルを握る私の手を照 らす。激昂していたせいか、麻痺していた頬の痛みが戻ってきた。成歩堂を殴りつけた手も熱を持って僅かに赤くなっている。今更、忌々しいやつだ。
  口元に手を当てる、途端に走る鋭い痛み。同時に脳裏を過ぎるのは、あの優しい指先で。
  ぽたり。生温い水滴が、音もなく手の甲に落ちた。ひとつ、ふたつ、みっつ。それが涙だと気付いた時には、もう、何もかもが遅すぎた。そう、何もかもが、全て。
  頬を伝う涙が傷口を掠めていく。じくじくとした痛みも、今はもう、どうでもいい。
「………っ………」
  外灯と僅かな月明かりに照らされて、静寂の中、声を殺して私は泣き続けた。口端に小さな傷痕と、心に大きな穴を残して― 。