しかめっつらのマイ・バトラー

「成歩堂。いい加減、弁護料を受け取ってくれないか」
  定時も過ぎた、午後8時。成歩堂法律事務所にて。
  夜の帳が降りて人通りの少なくなった通りをぼんやりと見下ろしていたら、切羽詰ったような、けれど僅かに怒りの色を滲ませた声が部屋の空気を震わせた。もう遅いからと若き副所長はつい1時間ほど前に帰してしまったので、必然的に向けられた言葉は自分宛のものということになる。すっと顔をそちらに向けると、ソファに身を預けていたはずの彼―――検事局きっての天才検事として名高い、御剣怜侍その人―――が、いつの間にかデスクを挟んだすぐ向かいに立っていた。立てた人差し指が、コツコツ、と胸の前で組んだ腕の上でリズムを刻んでいる。これは彼が苛立っているときのひとつのクセだった。
「弁護料?」
「とぼけるな。弁護料として私が指し示すものといえば、ひとつしかないだろう」
「うーん………まあ、ね」
  曖昧な返答で言葉を濁すと、あからさまなほど御剣の眉間に皺が寄った。不機嫌なそれを露ほども隠そうとせず詰め寄ってくる御剣がおかしくて思わず苦笑を零してしまうと、それで尚更何がおかしいと詰め寄られる。何がおかしいって、まあ、しいて言うならきみの存在すべてかな?
「弁護士としての働きを全うしたのなら、弁護料を受け取るのが当然だろう。例え、その……友人同士とはいえ、こういう問題はきっちりしておくべきだ」
「あ、よかった。ぼくのこと、少なからず友人とは思ってくれてるんだ」
「と………当然だろう。むしろ、私はキミに本当に感謝しているのだよ。命の恩人と言っても過言でないぐらいだ。だから…」
  コホン、と改まって咳払いをひとつ。ほんのり染まった頬が赤い。
「御剣の気持ちは充分わかってるって。それを踏まえた上でぼくがいいって言ってるんだから、おまえは何も気にしなくていいんだよ」
「いや、それでは私の気が済まないのだ。頼むから受け取ってくれ。この通りだ」
  と、突然バン!と勢いよくデスクに両手をついて、深々と御剣が頭を下げた。エベレスト並みのプライドを持つ、あの御剣怜侍が、だ。デスクに額をなすりつけんばかりに(成歩堂の視点からだと確認できないだけで、ひょっとするとぶつけたかもしれない、それもしたたかに)頭を垂れる御剣の姿にさすがの成歩堂も ぎょっと目を剥いてしまう。
「み、み、御剣。頭上げろよ。気にしなくていいから、本当に!」
「いや、ダメだ。キミが頷いてくれるまで、私はここから一歩も動かん」
  頭を下げたまま、きっぱりと断言されてしまう。そのままぴくりとも動かない彼の姿に困りきってしまって、はぁと溜め息混じりにチェアにもたれてみるけれど、状況が変わる様子は一向にない。深く頭を下げたせいで見晴らしのよくなった頭頂部のハネが目に入る。それがゆらゆらと揺れるさまをつい目で追っていると、―突然激しいデジャヴに襲われて、思わず成歩堂はハッと目を見開いた。

 ―――そうだ。こいつは、こういうヤツだったじゃないか。昔から。

 脳裏を過ぎるのは、成歩堂と御剣がまだ出逢って間もない頃の思い出。一向に顔を上げる気配のない御剣に、幼い頃の御剣の姿が重なった。

 確かあれは、夏休みが明けてすぐのこと。図工の宿題のテーマが貯金箱で、その日は夏休みが明けて初めての授業だった。それぞれ持参した貯金箱を教師に提出し、受理されたそれらは教室の一番後ろへ名札と共に並べられることとなった。そしてその中でも極めて目立っていたのが、成歩堂の貯金箱だったのである。手先が器用な彼は一際細工の施された貯金箱を作ってきていて、クラスの中でも特に注目を集めていた。どういう仕組みになっているのか、硬貨を入れると貯金箱に埋め込まれていた発光ダイオードがピカピカと光を放って、それが尚一層みんなの目を引き寄せる。もちろんそれは御剣も例外でなく、赤、青、黄色に光を放つそれに気付けば目が釘付けになっていた。彼はその頃から目も当てられないほど不器用だったので、自分が提出した素朴な貯金箱―――カラになった牛乳瓶に紙粘土を盛り付け、ガラス玉を埋め込んだだけのそれだ―――と程遠いそれに目をキラキラと輝かせては尊敬の眼差しで見つめていたのを覚えている。
  それを、御剣が壊してしまった。用心深く触っていたつもりだったのに、勢いよく突進してきたクラスメイトがいて、思わず手を滑らせたのが運のツキ。床に衝突したそれはがしゃんと嫌な音を立てて、震える手でそっと拾い上げてみたけれど、もうどうにもならなかった。先ほどまで点灯していたはずの発光ダイオードは光を失って沈黙を守っている。背筋がひやりとして、喉がカラカラに渇いていた。両手で抱えたまま、ともすれば泣き出しそうになるのを必死で堪えて目の前で青褪めている成歩堂に向き直ると、御剣は勢いよく頭を下げた。
『すまない、なるほどう…っ!ぼ、ぼくは、ボクは…っ』
  ぎゅっと胸に抱きかかえたまま、深く頭を下げて何度も謝罪の言葉を告げる御剣の様子に、何だ何だとクラスメイトたちが集まってくる。そんな事態に気が付いて、はっと我に返った成歩堂は慌てて何でもないよと曖昧に誤魔化すと御剣の手を引いて教室を後にした。こういうときのクラスメイトはいつになく怖いのだと、成歩堂自身が身をもって知っていたからだ、それもごく最近に。だから話をするなら極力クラスメイトの目につかないところで、と考えた成歩堂は、御剣の手を引いたまま近くの非常階段へ飛び出して、人がいないことを確認するとほっと息をついた。
『いいよ御剣、気にするなってば。きみが悪かったわけじゃないしさ』
『違う、ボクがもっと気をつけていればよかったのだ…!せっかくのキミの作品が、ボクのせいで…っ』
『そりゃ今は壊れちゃってるけど、直るかもしれないし…。ホントに気にしてないから、謝らないでよ』
  そう宥めすかしても、御剣は一向に頭を上げようとしなかった。何度も何度もごめんと謝るばかりで埒があかない。休み時間もあと僅か、どうすればいいのか全く検討のつかない成歩堂がううんと頭を悩ませて唸った、その時―――成歩堂の脳裏に思い浮かんだのである。妙案とも呼べるべきものが。

「…わかった。弁護料は、受け取ることにする」
「本当か!」
  突然態度を変えた成歩堂に疑問を持つこともせず、がばりと顔を上げるとそこには晴れやかな笑顔が浮かんでいた。その笑顔が普段の御剣からは想像できないような幼い顔つきで、くすくすと笑いを隠せず漏らしてしまう。
「うん。でも、弁護料って言っても、やっぱりおまえからお金は受け取れないからさ。…交渉しない?」
「交渉……?」
「そう」
  ぎし、とチェアが軋んだ音を立てる。成歩堂は背もたれから身を起こして机に頬杖をつくと、にこり、と人の良い笑顔を浮かべて、一言。
「1週間限定で、御剣がぼくんちの専属執事になること。これが弁護料ってことで、どうかな」
「な……」
  目を三日月形に細めながら小首を傾げるような仕草を見せると、御剣が言葉を失ったかのように口をぱくぱく開閉させた。まるで金魚みたい、面白いカオするよなあこいつ、なんて。頬杖をつきながら眺めていたら、暫し呆然としていた御剣は、やがて神妙な顔つきになって何やら小声でブツブツと呪文のように呟き始め、一人の世界に入り始めた。恐らく自分の中で葛藤しているのだろう。何せ彼はあの御剣怜侍だ。執事など、雇うことはあっても自分がその立場になるなんて予想だにしなかったであろう。そんなことはエベレストをも超越する彼のプライドが、決して許さないことと思えた。だからこそ成歩堂は、そんな無理難題な交渉を持ちかけたのである―――御剣なら、断るだろうと。そう踏んでの言葉だった。
「それがムリなら、交渉は決裂だよ。ぼくはきみから、これ以外の弁護料を受け取る気は一切ないからね」
「ム…ぅ…!」
  とどめとばかりにさらりとそう告げると、元々刻まれていた眉間の皺が更に深くなる。そうして数分とも呼べる短い時間、相変わらずブツブツと呟いていた御剣は突如ぴたりと沈黙し、動きが止まった。唐突に反応がなくなった御剣を不思議に思ったのか、成歩堂が「みつるぎ?」と声をかけて顔を覗き込もうとした矢先、彼はくるりと背を向けてしまう。そのまま足先は出口へ向かい、お、おい!と焦った成歩堂が声をかけるのにも振り向く気配すらない。
「急用ができたので今日はこれで失礼する」
「え、あ、ちょ…御剣!」
  慌てて席を立つけれど、時既に遅し。御剣はソファに置いていたアタッシュケースとコートを手早く抱えると、急ぎ足で事務所を後にしていった。残るは成歩堂ひとりで、途端に事務所内はしん、とした沈黙で満たされてしまう。伸ばされた手が空を切って妙に虚しい。はあ、と溜め息を漏らしながら脱力した体をもう一度チェアに沈ませると、ぎしっと軋んだ音が部屋に響いた。
(まあでも、これで諦めてくれただろう)
  だってあの御剣怜侍が、こんな無理難題を聞き入れるわけがない。第一1週間専属なんて、年中閑古鳥が鳴き止まない成歩堂法律事務所の所長と違って優秀検事の御剣は仕事に忙殺される日々を送っているのだ、到底無理な話だとわかりきっている。わかりきった上で御剣を引き下がらせる為に、と咄嗟に捻り出した策だったが、御剣の去り際を見る限り、なかなか悪くなかったのではなかろうか。もしかすると御剣は怒り心頭で不機嫌になっているかもしれないけれど、彼から弁護料を貰うぐらいなら、怒りを向けられる方がよっぽどマシだと成歩堂は思っていた。だから、成歩堂はこのまま御剣が諦めてくれることを、そして事態が収束に向かうことを願いながら―――否、確信しながら、今はもう誰もいなくなった事務所でこっそり苦笑を零したのだった。ほんと、頑固なやつなんだから。

 

*  *  *  *  *  *  *  *  *

 

 それから数日経った、日曜日の夜のこと。夕飯も終え、風呂にも入り終わった成歩堂は、さして面白くもないテレビをつけては行儀悪く寝転んでそれを眺めていた。ちょうどCMに差し掛かったところでテレビのリモコンを取り、適当にザッピングを繰り返していた、そんな時に。

 ―ピンポーン…。

 軽やかな音が部屋に響いて、思わずびくっと体を強張らせてしまった。驚いて時計に目をやると、時刻は夜の11時、もう日付も変わろうとする時間である。人を訪ねるにはあまりに遅すぎる時間ではあった。
「…こんな時間に誰だよ、まったく」
  のそりと緩慢な動作で起き上がって、いかにも面倒臭そうに成歩堂は玄関へ向かう。ゆっくり歩みを進める成歩堂に待ちくたびれているのか、扉まであと5歩といったところでもう一度インターフォンが鳴る。ああもうわかったようるさいなあ、と怒鳴りたいのを堪えてドアスコープから向こうを覗くと、そこに立ち尽くしていたのは予想外も予想外のその人、呆気にとられて思わず名前を叫んでいた。
「み、…みつるぎィ!?」

 

「ム。遅いぞ成歩堂。外は寒いのだ、さっさと出てきたまえ」
  ようやく成歩堂が扉を開けたのは、通算3度目のインターフォンが鳴り響いてからだった。ぴんぽん、とやけに短く押されたその音が存外に早くしろと告げているようで我に返った成歩堂が慌てて扉を開けてやると、冷気で鼻先を赤くした御剣が、紛れもなくそこにいた。
「ど…どうしたんだよ、こんな時間に。何かあったのか」
「それより中に入れてくれないか。先ほども言ったが外は寒い。話なら中でもできるだろう」
「あ、うん、わかっ………………って、だ、ダメだ!ちょっと待って!」
「なんだ。………誰か来ているのか?」
「そうじゃなくて!おまえ連絡もなしに来るもんだから部屋が散らかってるんだよ、片付けてないの!こんな部屋に入れらんないって!」
  言葉の通り、成歩堂の部屋は酷い有様だった。元来自分の身の回りのことにはてんで無頓着な男である、自宅の片付けなど成歩堂が最も苦手とする作業であることは紛れもない事実だろう。洗い物やゴミ出しだけはきっちり行っているけれど、部屋の至るところに脱ぎ散らかした服は落ちているし、読んだ雑誌もあちらこちらに放置したまま。普段から御剣には口を酸っぱくして事務所の整理整頓を言われ続けているというのに、綺麗好きの彼にこの現状を見られたら何を言われるかたまったものではない。
  けれど御剣は、成歩堂のそんな言葉にふム。と頷いては少し考える素振りを見せて、そして。
「構わない。むしろ好都合だ。…お邪魔する」
「え、ちょ、み、御剣っ!?」
  ぐいっと成歩堂を押しのけては手早く靴を脱ぎ捨てると、御剣は勝手知ったる我が物顔で奥へ歩を進めていく。慌てて成歩堂が引きとめようとして御剣を振り返り、扉を閉めようとして―――そこに取り残されていた大きなキャリーケースが目に入った。なんだこれ、なんでこんな大きいキャリーケースがここに?これ御剣の?だとしたらどうしてあいつはこんなものを…。
  ぐるぐると思考が回転する。しかしそのままにしておくわけにはいかないだろう。ワケがわからないまま成歩堂はキャリーケースを玄関に引き入れると、入り口付近にそれを置いて急いで部屋へと戻った。やはりというかなんというか、御剣は部屋に一歩足を踏み入れたところで呆然と立ち尽くしていて、部屋の有様に目 を剥いている。御剣の嘆きが小声で聞こえた。―想像以上だな。………ウルサイほっとけ。
「どういうことだよ御剣、好都合って。意味わかんないぞ」
「どういうことも何も、そのままの通りだ。やるべき仕事は明確である方が、こちらとしても助かるからな」
「はあ?仕事?なんだよそれ。余計意味わかんないって」
「何を言っている、成歩堂。交渉を持ちかけてきたのはキミの方だろう。キミの記憶力は数日ともたないのかね」
  相変わらず人の神経を逆撫でする言い方が好きだなあ、こいつは…。溜め息をつきながら、言われた通り数日前の記憶を遡ってみる。御剣と会話をしたのは、あの日の事務所での出来事が最後だった。そうしてそこまで考えて、…成歩堂は、まさしく石のようにびしり、と固まった。

 やるべき仕事。

 大きなキャリーケース。

 数日前に持ちかけた交渉。

 その3つの要素を組み合わせて、弾き出された真実はたったひとつ。
「1週間、休暇を取得してきた。だから、これでちゃんとキミとの交渉に応じることができる」
  くるり、と御剣が身を翻して後ろに立っていた成歩堂に向き直った。コホンと小さく咳払いをすると、恭しく、まるで法廷を思わせる仕草で一礼をすると。
「今日から1週間、私はキミの専属執事だ。如何様にしてくれて構わない」
  はっきり告げられた言葉。瞬間、成歩堂の脳裏にフラッシュバックする幼き頃の光景。

 ―――そうだ。こいつは、こういうヤツだったじゃないか。昔から。

 あの日、何度気にするなと告げても頭を上げなかった御剣。そんな彼を引き下がらせようと、成歩堂は思いついた妙案を彼に告げた。それは相当無茶なことで、彼なら絶対に断るだろうと踏んでの言葉だったのに。ばっと顔を上げた彼は、まるで蕾が綻んだかのような笑顔を浮かべていて。
『わかった!』
  と―――…一言頷いたのだった。それも満面の笑みで、全く躊躇することなく。その言葉に成歩堂がえええ!?と盛大な叫び声をあげたのは、言うまでもない。

 幼い頃の御剣と、今の御剣。何ひとつ変わっていないと自分自身が一番わかっていたはずなのに、どうして今まですっかり忘れてしまっていたのだろう。こういう性格だったじゃないか、こいつは。本当に何ひとつ変わってないんだ、頑固なところも、純粋すぎるところも何もかも。頭を抱えてしまっても、それはもう後の祭りとしか言いようがない。

 かしゃん、と。テレビのリモコンが手から滑り落ちる音が、夜の闇に響いては溶け込んでいく。こうして今夜、1週間限り、しかめっつらのバトラーが誕生したのであった。

To be continued.

2008.10.09
加筆修正*2009.01.09