写真

 深夜、成歩堂邸にて。
  すっかり夜も更け、持ち帰りの仕事を慣れないパソコンでこなしていた成歩堂がうとうとと船を漕ぎ始めたのに気付いた私は躊躇いながらも出来る限り優しく肩を叩いて彼を起こしてやった。まだ眠りが浅かったのだろう、ほんの少しの振動でハッと目を覚まし、寝起き特有の掠れた声でごめん、と呟きながら欠伸を噛み殺した彼に笑いかけると寝室へ移動しようと持ちかける。つけっぱなしていたテレビを消し暇潰しに読んでいた小説を閉じて自分の鞄に直してしまう頃には成歩堂も寝る準備が完了していたらしく、パソコンを終了させた彼がパタンとノート型のそれを閉じてしまうともう1度欠伸を零したので、思わず2人、顔を見合わせて笑ってしまいながら揃って立ち上がった。
  隣接した寝室に移動すると、先ほどまで人の気配がなかったその部屋はリビングに比べて肌寒く、日頃から平熱の低い私はぶるりと肩を震わせてしまう。こんな時はベッドに潜り込むのが一番だとふんでいる私はこの部屋の主である成歩堂を差し置いてさっさとベッドサイドまで足を進めていく。…と、サイドテーブルのすぐ側に1.2センチほどの厚みのある本が何冊も乱雑に積み重ねられていることに気付き、ふと足を止めてしまった。躓いてしまい兼ねなかったのでサイドテーブル上のランプに手を伸ばして光を灯すと、真っ暗だった空間が仄かなオレンジ色に染まる。少し頼りないが、お陰で足元がはっきり見えるようになったのでよくよく目を凝らしてみると、どうやら積み重なったそれらは本でなくアルバムのようだった。それも、所々が擦り切れくたびれているので、随分と年季が入っていることが窺える。
「成歩堂。これは…」
「え?なに?…あぁ、それか」
  一冊手にしてから思わず尋ねると、同じようにベッドに潜り込もうとしていた成歩堂が後ろから覗き込んでくる。その表紙を目にしてあぁ、と頷くと、ベッドに腰掛けながら私を見上げて欠伸を噛み殺しながら答えてくる。
「見ての通り、アルバムだよ。確か中学…いや高校の頃のかな。懐かしくなっちゃってさ、昨日寝る前に見てたから、そこに置きっぱなしだったんだ」
「ふム…アルバムか。…見てもいいだろうか」
「どうぞ。でもなんだか恥ずかしいなぁ」
  ははは、と笑って頭を掻く成歩堂の横に腰掛けると、膝の上で1ページ目を捲る。覗き込むように成歩堂が私の肩にもたれかかって来たので、少しだけアルバムを彼の方へずらしてやると、ありがとうと耳元で囁かれてぞくりと肌が粟立った。それに気付かれないようコホンと咳払いをすると、開いたページの写真に目を落とす。文化祭か何かだろうか、教室に飾り付けを施す他の生徒に混じって楽しそうに微笑む成歩堂の姿や、取り組みを他の男子生徒に邪魔されて焦っているような表情を浮かべていたり、数人のクラスメイトたちと戯れている姿など、今より随分と幼い、けれど優しい笑みや誠実そうな瞳はそのままの成歩堂がそこにはいた。どれもこれもが目を覆いたくなるほど輝いた笑顔で、彼を取り巻く人々もまた、同じように笑顔だった。そう、いつだって彼は皆の中心にいる。彼が意図せずとも、そうであるのが自然であると言わんばかりに。彼が周りを幸せにする代わりに、きっと彼もこうして幸せを分け与えてもらってきたのだろう。数ページ捲っただけでそれがありありと伝わってきて、初めて見る成歩堂の姿を知ることのできた喜びとは裏腹に、私の胸はきりきりと酷く痛み、まるで霧がかかったかのように重苦しい気持ちでいっぱいだった。
「……悔しい、な」
「…………御剣?」
  無意識の内に言葉を吐き出してしまっていて、しまった、と思った。けれど怪訝に見つめてくる成歩堂に今更隠し立てをすることもできず、はぁ、と溜め息を零すと、ふるふるとゆっくり首を振った。
「勝手に去って、君の連絡を頑なに拒み続けた私が言える義理などないとわかっているのだ。
…だが、やはりこうして君の過去に触れ、私の知らぬ君の世界を垣間見ると思ってしまうのだよ。なぜこの時成歩堂の傍にいれなかったのかと。君が心から楽しんで、泣いて、笑って過ごしてきた時間を、私はこうして写真でしか知ることができない。知ることができても、共に思い出を懐かしむことなど出来やしない。……それが悔しいのだ」
「御剣…」
「この時、私も彼らと同じように君の笑顔を傍で見たかった。そうして君から笑顔を分け与えてもらいたかった。こんな風に……思い出を共有して、共に懐かしみたかった」
  こんなことを言ってもどうにもならないとわかっている。けれど、この写真を前にして言わずにいられなかった。
  私と成歩堂が共に過ごした時間は、1年と満たない程の僅かな時間。生きてきたこの20数年の中で、たったそれだけの時間しか、私たちは共有していない。その上思い出と呼べるような思い出も本当に僅かなものだ。
  彼の中で、私の割合がどれほど大きく占めているのかは存分に理解しているつもりだ。自惚れなどでなく、彼自身の行動と発言を踏まえた上での結論なので、これはあながち間違いではないと思っている。しかし、思いの強さは他に劣らずとも、共有してきた時間、思い出、そういったものに太刀打ちできる術を私は持ち合わせていなかった。彼がなんと言おうとも、私よりも多くの時間を過ごし、彼との思い出を共有できる他人が沢山いるということは抗うことのできぬ事実であり、現実なのだ。その現実は私の胸を酷く締め付ける。キリキリと心臓に有刺鉄線が巻き付けられたかのように痛み、ともすれば泣き出してしまいそうなほどの息苦しさを感じてしまうのだ。
「こんなことを君に言っても仕方ないと…わかっている。わかってはいるのだが…私は、彼らが羨ましく思うことを止められない」
「御剣」
「君は…………呆れただろうか」
  自分でも、浅ましいと思う。こんな些細なことで怒り、嫉妬に狂う自分の心が卑しい、と。だから、彼には知られたくなかったはずなのに、いつだって彼の前だと冷静な自分を保てなくなる。思い描く自分の理想像とは全く異なる方向へ走り出す己を止めることができず、いつだって言葉を吐き出した後に自分の行動に心底嫌悪するのだ。後悔先に立たずとはまさにこのことだと、私は彼と再会して、自分には縁のないと思っていた言葉を身をもって知った。
  開いたままのアルバムをこれ以上捲る勇気もなく、力なく握った手のひらを行き場に困らせてその上に置いていると、ぎゅ、と温かな手のひらが重ねられる。その温かさと包み込む彼の手のひらの大きさに弾かれたように顔を上げた途端、目の前に迫ったのは親指と人差し指で輪を作った彼の指先だった。何を、と言葉を零す前にそれが弾かれ、ぴん、と眉間を突付かれて、思いがけない衝動にふらりと体が揺らめいた。
「呆れるわけないだろ。お前がそんな風に思ってくれてたなんて、すっごく嬉しいに決まってるじゃないか」
  弾かれた箇所を擦りながらじろ、と睨み付けて文句のひとつでもつけてやろうと思った瞬間、屈託もなく笑われて、おまけに距離を詰められて抱き締められては二の句も告げなくなってしまう。いつだってこの腕は私を捉え、この胸は私を受け止め、この声は私の為だけに囁いてくれる。胸元に顔を埋める形となった抱擁が心地良く、鼻腔を満たす彼の匂いを胸一杯に吸い込むと、先程の息苦しさや怒り、悲しみといった感情が全て消えうせていくかのようだ。赤の他人であるはずなのに、もうずっと昔からこの匂いに包まれ、満たされてきたかのように酷く安心する。膝の上に置き去りだった手のひらをおずおずと成歩堂の背に回して自分からも抱き締めると、彼がふるふると肩を小刻みに揺らしたので、それで笑ったことに気付いた。
「ぼくがずっと笑っていられたのはね、ココロの根底にきみがいたからだよ、御剣」
「ム…ココロの根底?」
「そう。きみにいつか会うんだって決めてたからね、ぼくは。で、あの仏頂面を、絶対涙が出るまで笑わせてやるんだって思ってた」
  抱き締めていた腕の力が緩み、ゆっくり体を起こされると、途端にちゅっと啄ばむような口付けが落ちてきた。額、頬、瞼…反射的にきゅ、と目を瞑ってしまうと、くっくっと楽しんでいるような悪戯めいた笑い声が聞こえてきたので、無性に悔しくなって先程飲み込んだ文句でも言ってやろうと口を開きかけた。けれど、今度は唇に口付けが降ってきたので、またしてもそれは未遂に終わる。ちゅ、ちゅ、と啄ばむような口付けから、やがて成歩堂の舌がそろりと私の唇を這い始め、下唇をなぞりながら緩慢な動きで口内へと割り入ってきた。決して嫌なわけでないが、未だこういった行為に不慣れな私は彼が与えてくれる快楽を精一杯受け止める術しか知らず、思わず身を竦めながら後ろに倒れてしまわぬようぐっと腹筋に力を入れて耐えると、それを肯定の合図と受け取った成歩堂がますます口付けを深めていく。奥で縮こまっている私の舌と自分の舌を絡ませると、時折強く根元を吸い上げ、触れるか触れないかと言った繊細な動きで上顎をなぞりあげ、何度も何度も角度を変えては貪るようにして、お互いの唇に酔いしれていく。静まった部屋に卑猥な水音が響いて、先程耳元で感じた成歩堂の熱い吐息を思い出しぶるりと肩が震えた。つ、と指先で優しく背中を擦りながらやがてゆっくりと離れていく唇に多少の名残惜しさを感じつつ薄っすらと目を開くと、涙で滲んだ視界の先に、目を覆いたくなるほど眩しく笑う、誠実そうな瞳が柔らかく細められた成歩堂がそこに、いた。何故だかわからないけれど―――その表情を目にした途端無性に泣きたくなってしまって、いい大人がだらしない、恥ずかしい、と自分に自制をかけつつも、くしゃりと歪む表情だけは隠せそうになくて。
「きみを笑わせるには、ぼくが笑顔でいなきゃ、って思ってた。だから、その笑顔は全部全部、きみだけのものなんだよ」
「私…だけの………」
「うん。そりゃ、さ、この時きみは遠くにいってしまっていたけれど。ぼくのココロの中ではずっと傍にいたんだから、思い出を共有しているようなもんだと思わない?」
  少なくとも、ぼくはどんな時だってきみを思い浮かべて生きていたから、ずっときみとの思い出を作っているつもりだったんだけど。だなんて、…そんな風に、いとも簡単に付け加えたかのような言葉を零されたら、………ギリギリのところで押しとどめていた感情が決壊してしまうではないか、馬鹿者が。
「きみ、は………稀代の大馬鹿者、だっ……」
「御剣のためなら、大馬鹿者にだってなんだって喜んでなってやるよ」
  第一、共有というのは1つの物事を2人以上が共同で持つことを指すのだから、彼の言っていることはてんで矛盾している。弁護士であるくせに、こんな矛盾だらけで尚且つ不明確な証拠を突きつけるなんて、検事として私のプライドが許さない。
  そう思っているのに、私の口から零れるのは目の前にいる当の弁護士の名前と、止めることのできぬ嗚咽だ。成歩堂、なるほどう、と名前を呼ぶことしかできず、肩口に顔を埋めると、背中に回された手のひらが宥めすかすよう優しく撫でてくれた。
「御剣。…大好きだ。昔から、今もずっと、そしてこれからも」
「な、るほどう……っ」
「ぼくの存在意義は、きみだよ」
  あまりに優しい声色に顔を上げると、さっと掠めた唇が涙を掬い取ってしまう。赤く熱を孕んだ瞼に落ちる唇の感触が心地良く、力を抜いて目を閉じると、何度も何度も啄ばむような口付けが落ちてきて、そこから彼の気持ちが痛いほど伝わってきた。どこまでも優しい彼の温もりに、胸が痛くなる。けれど、先程とは違う、酷く甘い痛みだ。甘くせつない、恋慕の情に焦がれる痛み。彼の存在意義が私だと言うのなら、きっと私の存在意義もまた彼なのだろう。
  突然腕を引かれて、膝の上に置き去りだったアルバムがばさりと音を立てて床に落ちた。あ、とそれを拾う暇もなく彼に抱きすくめられ、そのままシーツに縫い付けられる。覆い被さってきた成歩堂がぐっと背を丸めて耳元へと唇を寄せ、ぼそりと囁きを零し―――。
「……っ……やっぱりきみは…大馬鹿者、だっ……」
  はは、と困ったように眉根を寄せて笑った彼は、泣き笑いのような表情を浮かべる私の眉間にちゅ、と口付けをひとつ落として、力強く抱き締めた。手のひらも体もそうして唇も、全てが彼と繋がっている。成歩堂の首筋に回した腕に、もっと、と言わんばかりに力を篭めると、肩口に顔を押し付ける。少し浮いた背中に彼の手のひらが回って、優しく撫でられるだけで心底安堵した。
  ふと、首筋に抱きついて背中が浮いたせいで、床に放り投げられたままのアルバムが目に入った。あぁ、写真に皺が入ってしまう、と一瞬彼を押しのけて拾いにいこうと考えを巡らせて―――すぐさま打ち払った。
  皺に、なってしまえばいい。成歩堂の過去は、彼の頭とココロの中で、私との思い出として存在していれば、それでいいではないか。
  私は過去に太刀打ちできない。けれど過去もまた、現在の私に太刀打ちできる術を持っていないのだから。
「だから、言ったろ?きみのためなら、大馬鹿者でもなんでも大歓迎だって」
  ふっと笑われて、重ねられた唇。割り入れられた舌の熱さに私は強い優越感を感じ、床に置き去りのままのアルバムを目の端で見やって薄っすらと笑みを浮かべると、彼との行為に没頭すべく静かに目を閉じた。

2008.07.18