携帯電話

鳴らないな。

机に出しっぱなしてあった携帯電話へちらりと視線を移すと、ふと御剣はそんなことを思った。
もう昼もとうに過ぎた午後2時。いつもならばとっくに携帯が震えてもいい頃なのに、そんな素振りを一切見せない赤くて無機質なそれは沈黙を守ったまま静かにそこで佇んでいて、御剣は不快を覚えた。 知らず知らずのうちに眉間に皺が寄る。万年筆がぱき、と小さな音を立てて、そこでようやく我に返って手元へ視線を落とすと、指が白くなるほど強く握り締めていたことに気付いた。

………全く、私は一体何を考えているというのだ。

自嘲気味に溜息を吐き出してこめかみに手を当てると、連日の激務で疲れた体が酷く重いように感じて、革張りのチェアに深く背を沈み込ませるとゆっくり目を閉じる。


こんなに人に固執するだなんて、以前までの自分には考えられないことだった。
踏み入られるのが怖くて、心を閉ざしてばかりいたあの頃の自分。
黒い噂が流れることさえ、周りを遠ざけるいいキッカケになるとそう思っていた。
本当は心が悲鳴を上げていたのに、それすら平気なフリをして、見ないように目を逸らしては流れる血もそのままにして。

自分に近しい人間は、もう誰一人としていなくて、いい。
だって自分は本当に弱くて、こんなにも、もろい。
だから、こんな自分を知っているのは自分だけでいいのだと、自分だけだと、ずっと自分を戒めてきたはず、なのに。


本当の自分を知っているのは自分だけ、だなんて、勘違いも甚だしいと無理やりに気付かされた。
彼はずっと見ていてくれた。遠く離れてしまったあの頃から、ずっと、ずっと。
黒い噂が流れたとき、痛んだはずの心の傷も、彼が信じてくれていたと気付き、知らされたときに、全てが浄化される思いだった。
かたくなに閉ざしていた、あの頃の刺々しい自分。
さぞ触れるのも痛かったであろう自分に、決して諦めることなく真っ直ぐに見据えてぶつかってきてくれた彼。
ひたすら守り続けた最後の砦さえ、彼は難なく乗り越えてみせた。…いっそ憎らしいほどの邪気のない笑顔を浮かべて、外から殻をぶち破って。
躊躇なく伸ばされた手のひらは何事にも変えがたく。
絶大な威力を持って、自分の世界は色鮮やかに塗り替えられた。




ブブブブブ……


「っ!!!!」
机が細かく振動して、音が伝わってきた。思わず驚きと喜びにびくりと肩を強張らせて、我ながら情けないと思いつつ万年筆を放り出して飛びつくようにして携帯を取り上げると、表示されている液晶ディスプレイには「成歩堂 龍一」の5文字。無機質なそれが奏でるメロディが極上のオーケストラに負けず劣らずのものに聞こえてしまう、そんな自分に呆れてしまった。…しまったの、だ、が。

「惚れた弱みというやつ、か……」

こんな自分も、嫌いでは、ない。
一人の人間の行動ひとつに一喜一憂できるほど自分にもまだ人間らしさが残っていたことに酷く安堵する自分がいて、そうしてそれはこいつのお陰なのだと自覚しているからこそ尚更愛しくてたまらない。ク、と零れる笑みが我慢できなかった。

こんな自分が、いてもいい。
だって彼は、どんな自分であってもきっと、私のことが大好きだから。


「御剣だ」
『あ、もしもし?ぼくだけど。今大丈夫?ちょうど近くまで来てるんだけどさ、』
「あぁ、大丈夫だ。ちょうど、君の声が聴きたいと思っていたところだからな」
『…へ?み。御剣。……今、なんて?』

そう。
たまには、こんな自分であっても、いい。


「…君に逢いたいと言っているのだよ。何か異議でも?弁護士クン」
『………いいえ、弁護側に異議はありません。天才検事殿』
「…なら、私の気が変わらぬうちに、さっさと手土産のひとつでも持って来たまえ」
了解。と短く返事が返ってくると同時に、クスクスと噛み殺した笑いが耳に届いて妙に気恥ずかしくなる。半ば強引に通話を切ってはツー…と無機質な音を立てるそれを見つめ、今頃、大急ぎで手土産を調達に行っていることだろう成歩堂を想像する。

自分の好みを熟知している彼はきっと、大通りに面したケーキ屋でいつものショートケーキとモンブランを1つ買ってくる。 息せき切って駆けてくる彼の姿を想像するだけで笑いが零れることの、なんと幸せなことか。
ちらりと携帯のディスプレイに目をやると、時刻はちょうど2時半と少しを回ったところだった。成歩堂が着く頃には3時ごろ、子供の頃でいうちょうどおやつの時間に差し掛かるころであろう。
ケーキがあるならば、それに見合った飲み物が必要だな。
先ほどより随分と軽くなった気がする体を起こして腰をあげると、今日はフンパツしてやるか、と御剣はとっておきの紅茶を棚から用意し始めた。

2008.07.18