怖い

 忘れることと忘れられること、果たしてどちらが苦しいのだろう。

 

 遠いかの地に想いを馳せる。それは遠き海の向こう、祖国と呼べる日本へと。冬もとうに過ぎた穏やかなこの季節、既に祖国では国花のひとつでもある桜が満開だろう。精一杯に蕾を押し広げて咲いたそれらは、その地に住まう人々の目を色鮮やかに楽しませていることと予想された。
  桃色の花びらがひらひらと舞い落ちる。それは想像するだけでとても美しく、蜃気楼のようにおぼろげな儚さのようにも思えた。

 淡い、桃色。満開の桜の下、佇む色鮮やかなコバルトブルーはさぞかし映えて美しいのだろう。


「レイジ?」
  軽やかな声に、はっと我に返った。目線を下げれば、少し下、訝しげな表情で私を覗き込むメイの顔がそこにある。どうやらぼんやりしていたらしい。立ち尽くしたままショーウィンドウを眺めていた私を不審に思ったようだ。ふるりと軽く首を振ってから、すまない、と一言謝罪を述べる。
「どうしたの。何か気になるものでもあったのかしら」
「い、いや。別にそういうわけでは」
  メイが思わず訝しむ程には、熱心に一点を見つめていたらしい。私の視線の先を辿るようにしてつい先ほどまで眺めていたショーウィンドウを見やると、ふぅん、とさも興味なさげに相槌を打つ。
「貴方にブルーは似合わないわよ。イメージじゃないわ」
「……わかっているよ」
「そう。なら、行きましょう。時間の浪費は嫌いなの」
「あ、いや。待て」
  すっかり興味を失くしたのであろう(というよりも、元々興味など示していなかったと言う方が正しい)メイは、くるりと身を翻すと足早にそこを離れていく。そんな彼女に思わず声をかけて引き止めると、心底煩わしそうな表情を向けられた。顔立ちが整っているだけあって、どんな表情でも彼女は美しい。その分迫力も充分だが。幼少の頃から彼女と時間を共にしている私には見慣れたものだ。
「少し待っていてくれ。なに、5分もかからん」
「……先に言っておくわ。5分経って戻ってこない場合、置いていくわよ」
「無論、そうしてくれて構わない」
  溜め息を吐き出して、ショーウィンドウにもたれかかったメイが早く行けと言わんばかりにしっしっと手を振った。眉根を寄せて腕を組む彼女にもう一度すまない、と謝罪を述べると、足早に店内へと足を踏み入れる。
  オールディーズが流れる店内はゆったりとした空気に包まれていて人もまばらだ。白を基調としたこの店は清潔感が感じられてなかなか好印象が持てる。が、ゆっくり店内を眺めているほど時間に余裕はない。またいずれかの機会に足を運ぶことにしよう。
  近くにいた店員を捕まえると、ショーウィンドウに飾ってあったコバルトブルーのシャツを指差し同じものが欲しいと手早く告げる。にこやかな笑顔で頷いた店員は素早くショーケースから同じものを取り出してくると、サイズと値段を確認させて間違いないかどうかを尋ねてきた。異議などあるわけもない私はそれに頷き返すと、促されるままレジへと向かって会計を済まし、商品を受け取ってようやく店外へ。ちらりと腕時計を見ると、ジャスト5分。やれやれ、間一髪だったか。
「ギリギリね」
「すまない。お詫びと言ってはなんだが、お茶でもご馳走しよう」
「当然だわ。近くにドルチェの美味しい店があるから、そこにしましょう」
  こう見えて甘党なメイは、そういった店に意外と詳しい。壁から背を離して今度こそ歩を進め始めたメイを追いかけるようにして後ろにつくと、彼女は何か言いたげにちらりとこちらを見て、やがて呆れたように溜め息をついた。
「ブルーは似合わないと言ったのに。なぜアレを買ったのか、理解に苦しむわね」
「…………たまには、違う色もいいかと思ったのだよ」
「まあいいわ。明日それを着ていらっしゃいな。一蹴して笑ってあげる」
「キミは趣味が悪いな」
「あら、貴方に人のことが言えて?」
  くすり、と微笑む彼女に二の句が告げなくて、思わず黙り込む。そんな私の様子を見て、また彼女が笑った。
  正直に言おう。コバルトブルーのシャツなど私だって好みではない。それならば横に並んでいたモスグリーンのシャツの方がよっぽどセンスがいいと思えたし、自分に似合いそうだとも思えた。そう、だからこれは、自分で着るつもりなど全くないのだよ、メイ。ただ単純に、脳裏に浮かんだだけだ。これに袖を通したあいつの姿が。
  きっと、よく似合う。普段から好んで青を身に纏うあいつならば。

 

 昔、忘れることと忘れられること、果たしてどちらが苦しいのだろうかと考えたことがある。その時の私は考えるまでもなく「忘れられること」だとそう思っていた。世間に忘れられ、取り残され、独りになってしまうことへのそこはかとない恐怖。想像するだけで、絶望に胸が打ちひしがれる思いだった。
  けれど、今は。

 キミを忘れることに、こんなにも、怯えている。

 逃げるように去った私のことを、キミは憎んでいるかもしれない。そうして忘れようと、いや、もしかしたらもうすっかり忘れてしまっているかもしれない。いつだって彼の周りは明るく光に満ちていて、私一人に捕らわれるほど寂しい世界ではないからだ。それならそれで構わない、と思う。今はもう、忘れられることにさほど恐怖を感じなかった。誰が私を忘れようと、私が私を覚えていられる。
  けれど、私が彼を忘れてしまうのが、これほどまでに恐ろしい。抑え切れぬほどの彼への想いが掻き消えてしまうことに、これ以上ないほど恐怖する。

 だって、私がキミを忘れてしまったら。一体誰がこの想いを覚えていてくれる?

 誰が私を忘れようと構わない。だからせめて、私にキミを忘れさせないで。この想いを、記憶を、殺させないで。

 

 ふと、通りがかった店頭で目に焼きついたターコイズカラー。ああ、あれも彼に似合いそうだ。
「レイジ?」
  そうして私はまたもうひとつ。キミを忘れないように、キミに似合うものを買う。

 

 桃色の花びらが舞い散る中、鮮やかな青を身に纏ったキミが微笑んだ気がした。

2008.09.21